retire2015

自分の人生の「区切り」を考える時には、古い自分がどう壊され、新しい自分がどう現れたかを、 発展を、まとめなければならない。

人生の後半戦

Wカップの日本戦を見ていて、サッカーというのは前半と後半の二つの場面をどう戦略的に戦うかにかかっていると思った。前半と後半は戦い方が全然異なるのだった。明確な「二つ」という区分があるスポーツは、他にあるのだろうか。野球、ゴルフ、テニス、卓球、陸上競技、水泳、バスケットボール、ラグビー、バレーボール、ボクシング、柔道、剣道、等々と考えてみるとわずかに近いのが折り返し点のあるマラソンなのかなと思える。スポーツに詳しくないのでまだあるのかも知れないが。

ぼくが思うのは、人生にも前半と後半があるということだ。生まれて仕事をしてリタイヤするまでが前半で、リタイヤ後が後半である。人生100年時代ではなくて、120年説を唱える経営者の人があったが、その人は定年前後をそれぞれ60年ずつ与えている。対等の時間(価値)をその人は与えている。人生は後半の60年を構想することができるようになった。これは人類全ての人間に許されているわけでは残念ながらない。先進的な部分が歴史上でその人生舞台を用意されたのだ。せっかくなら後半の60年を有意義に過ごしたいと、幸運な人生を今も歩んでいる人ならそう考えるだろう。先日のWカップサッカーの例で考えるとしたら、前半は守備で後半が攻めということになる。つまり、後半の人生のために前半は体力を温存して、後半の人生で攻めることになる。そんなことが人生でできるものだろうか。誰かこれまでにやったことがある偉人がいるのだろうか。すぐに思いつくのは、伊能忠敬だろう。ひょっとしたら、プーチン習近平やトランプなのかも知れない、、、(変なオチになってしまったが、考えがいのあるテーマだと思う。)

生まれた街で

少年だった頃、よく一人で街に出かけていた

ビルの谷間を探偵にように歩いていた

友達がいなかったから風が友達だった

田舎の街の裏通りで

風は都会の匂いを運んできた

俯いて歩いてばかりいると時々年上の女にぶつかることがあって

ちゃんと前を向いて歩きなさいよと注意された

当てもなく彷徨うのにちょうどいい街だった

疲れたら穴蔵のようなジャズ喫茶の店にもぐりこむ

少年にはまだ早すぎてただ大音量に身を浸すだけだった

お客はみんな寡黙に自身に閉じこもって

ぼくにはなぜか優しかった

ランプの形をした電灯だけの薄暗さは

そこでも都会に通じていた

分厚い本をスポットライトの当たったテーブルで

熱心に読む大学生のお兄さんがいた

ぼくもそれ以来、ランボー詩集を持って来るようになった

外に出るといつも眩しかった

ビルの影に入って

風が通り過ぎるのを肌で感じていた

 

文学仲間との出会い

日本でのユング心理学の草分けである河合隼雄の大学教授退官記念講演というのを昔Youtubeで見たことがあって、最初の挨拶「私は長年河合隼雄という男と付き合っていまして」という言い方がとても気に入っている。ぼくも「もう69年間、藤井真人という男と付き合っていまして」と挨拶したいと思っている。自分の名前との距離感があると自由になれる気がする。この前電話で「藤井さんは、、、」と呼びかけられると、自分がその人の声の中に招き入れられた気になった。その声には好意が感じられ受け入れられたという安心感を感じた。好意の原因は、ぼくが読書会をやっていて今度講師をお願いしたいと申し出たことにあると思われるが、そのことより同じ文学愛好家として仲間なんだという出会い感の方が増して嬉しかったと思われる。「藤井さんはどんな本を読まれていますか」と訊かれたのだった。今読んでのはヘーゲルですけど、読んだ数からいうとやはり村上春樹ですかね、とぼくは打ち明けた。私も初期の鼠三部作は読みましたと先生は答えられた。これは池澤夏樹の村上評価と同じだった。つまりそのあとは読まないということで、「ノルウェイの森」からは読まないということだ。それは一定の割とプロの人の態度だった。ぼくは高校の時に長編ばかり読んでいて、村上春樹の長編を読むのが好きですと応答した。すると、高校の時はどんな本を読んでいましたかと突っ込んでこられた。ゲーテスタンダールやロマンロランやトルストイドストエフスキーなどですと世界の文豪の名前を並べたら、高校生でドストエフスキーを読むのは早いですねと感心された。話はドストエフスキーから日本になって埴谷雄高に飛んだのだった。埴谷雄高はマイナーだと思っていたがブームになったこともあるらしい。先生は「首猛夫」という登場人物の一人の名を口ずさまれた。ぼくは懐かしくなって、埴谷雄高の本は未来社の評論集も一揃い持っていますと、さらにマニアックに進んで先生の感心を買おうとしたが流石にそこまでは発展しなかった。先生は、金沢の泉鏡花文学賞と併設されている、市民文学賞の受賞者だった。

69年間生きてみたけれど

自分の人生を振り返って思うことをブログに書いて、出来るだけ正直に事実を曲げることなく見てきたつもりである。実はこのブログの前に「開界録」というブログを4年前から書いていて、そこでは幾分自分を曝け出すように、思いのままに書き散らしてきた。それだけ書いて言葉にすることによって、ある意味「客観的に」読めるものができたことになる。そこに書かれている文章の書き手は自分で、今それを読んで何かを感じ取ろうとしているのも自分である。しかし、同一人物でありながら、時間的には過去と現在という存在の違いがある。もう過去の自分ではない、と思ったから新しくこのブログを始めたのだ。実際は、「開界録」で書いた記事がほとんど読まれずに埋もれていくのを何とか再発掘して、「現在化」しようとしてそこからそのまま抜き出したものもある。今の視点でも読んで何か発見があるものを「編集」して、retire2015に移動させたが、それだけをやったわけではない。新たな出発に期して自分を未来に向かって作ろうとして、「捨てるもの」と「残すもの」を選り分ける「場」をこのブログでやろうと思ったのだ。端的に行って「捨てるもの」とは、サラリーマン時代に身についた従属的なものであり、「残すもの」とは退職後に獲得された自由に基盤を置くものである。「捨てるもの」は思い出であり、「残すもの」は実態である。

 

定年後を私小説風に

40年近く居た街のはずれの工業団地にある「収容所」から出て帰ってきてみると、街はそのままあって何が変わっているかすぐには気づかなかった。風景はそんなに違ってない気がしたが、しばらくすると確かにバージョンアップされていることが分かる。ただ街は綺麗になった分、空っぽで情念というものがない。ニューヨークがサンフランシスコになったような感じだ。(収容所生活の前は、街はニューヨークのようにエネルギッシュに生きていてが、40年経った今はサンフランシスコのようにリゾート地っぽく閑散としていた。)身なりはそれなりにシンプルにまとめられていて、一人一人同じように収まって見える。高齢者ばかり目につくようになったのは、これまで高齢者と出会うことのない時間帯にいたからだ。街に労働者風の男の姿が見えなくなった。男の学生が見当たらず、どこにも女性ばかりとなっていた。それは女のような男が増えてそんな印象を持ったのかもしれなかった。

映画館や書店が地方都市では郊外に移っているので、ファッションや雑貨の店しか残らず女の子ばかりが歩いていることになるのかと思われた。このごろの金沢は街に外国人の方が多いような日もあるくらいだ。実際は目立つから多く感じるのかもしれないが。40年前には金沢にもジャズ喫茶が3軒あったが、今は一軒残っているだけだ。この前その店に友人と入って昔話をしていて、店のマスターと目があった。ぼくが学生のころ、マスターは大学紛争で緊張関係の中に置かれていたころの状況を知っているらしいと思わせた。マスターもぼくを見てその頃の状況を思い出したかも知れなかった。一瞬完全にからだの動きが止まった。その店の入り口のボードには岡林信康のライブを知らせるチラシが貼ってあり、友人はその日をメモしていた。

ぼくはサラリーマン人生を38年間送ったのだが、よく我慢し通したものだという以外に感慨がない。よかったのは厚生年金が少なくてももらえることだ。妻の年金と合わせれば普通の生活がよっぽどの事故がない限り送れそうだという安心感は、今のぼくには精神的な財産となる。サラリーマンは社畜であり、個人の能力というものは必要がない。社畜の能力だけがある。感性が敏感だと屈辱に身悶えすることになるから、できるだけ鈍感になろうとする。給料の差や人事の不公平感に感情がとらわれたりすること自体が許せないので、鈍感になる方が手っ取り早い。会社を辞める方が賢明だったかもしれないが、器用な方ではなかったので面倒くさくなって流される方を結果的に選んでしまった。そしてますます社畜になっていくわけだが、強制収容所よりはマシだと思って耐えてきたのだ。マシというのはわずかながら給料がもらえ、社会保険や定年までいれば退職金がもらえることだ。

だからできるだけ無個性で働くのと、少々の奴隷的な過酷な環境にも耐えられる肉体と精神があればぼくのように定年まで会社に居られると思う。会社を甘く見てはいけない。毎日が戦いというほどの覚悟がいると思う。要は表面的な現象とか言葉に騙されてはいけないということだ。坂口安吾も書いていたが、一番悲惨なことは落伍者になって貧乏になることではなく、それによって自信を失うことだ。くたばらなければいいのだ。65歳になってようやく過酷な状態から解放されて息をできるようになった、というくらいに今を考えている。

現在。ここに居て妻と二人で暮らしている。近くに母が一人で住んでいる。外から何かを指示されて動くことからは解放されている。よく若い頃を思い出して時間を過ごすことが多くなっている。若い頃の気持ちにしばらく浸っていると、無意識の語り得ぬ非存在の、圧倒的広がりがあったことに気づく。その頃あった未来というものが、今はないことに気づく。空きスペースが随分とあった。それが消えている。齢をとるというのはそういうことなのか?無限と思える未来が今は無くなっている。本当にそうなのか?例えばジャン・クリストフの生きた大河のような人生はもう、ぼくには望めないことなのだろうか?それを取り戻したい!

もう稼がなくてもなんとか生きていける定年退職者の身分になって、働いて生活していく人生が終わってみると人生が終わりに向かうには早すぎて、身軽になっている現在が漂っている場を作っている感じがする。定年後の生活イメージが定着しないのである。一つの人生が確実に終わったのにまだ先が見通せないほど長い気がする。本当に思い通りの生き方ができるはずなのに、始められないでいる。65年間の人生は特別の試練を幸いにももたらさなかった。

父は83歳まで生きたから、ちょっとした事故死だったけれどそれほど不幸ではなかった。戦争で悲惨な体験をしたわけでもなさそうだった。ぼくは戦争を体験せずに済んだ世代に属している。餓死寸前になったり、肉体の限界まで酷使する状況に置かれたり、大量に血を見たり肉片が散らばったりしているのを見ることはなかった。

その代わりというのも変だが、平穏すぎて空虚を感じる、締まりのない日常というものは嫌という程経験している。何事も起こらない毎日が続き、何事もやろうという気にならない時間が山ほどあった。ぼくの周りには刺激的な人物があまりいなかった。学生運動がほとんどぼくの人生で唯一といっていいほどの刺激だった。

あれはちょうど大学に入って最初の夏が訪れるころだった。大学の隣の野鳥公園でスケッチしていると声をかけられて、タイミングよくガールフレンドが出来かけたことがあった。今から思うともったいない気がするが、ぼくは硬派だったので大学に数人いた活動家と思われていたグロープに近づいていく決心をしたのだった。(ぼくは何事も同時進行するやり方は不器用で出来なかった。)何となく空虚に耐えられなくて、世界との熱い関係に入っていきたい衝動に駆られていたような気がする。三島由紀夫の自決があったのが高校2年の時で、連合赤軍浅間山荘事件のあったのが高校3年で、大学一年の時に岡本公三のテルアビブ乱射事件があって、物騒な雰囲気が時代の空気を染めていた。元全共闘だった人がこの時期に運動から離れていったと述懐しているのを読んだことがあるが、ぼくの場合、今から振り返ると、訳のわからない暴力に対する幻想を掻き立てられて離れるのではなく逆に近づこうとした。少なくとも今日のISのような暴力とは異なる何かが感じられていた。(現在起こっている暴力には残忍性しか感じられない。)世界には自分が全く想像もできないことが起こっている、今まで自分は何も知らずに来た、もっと今起こっていることを知り、理解できるように勉強していこう、というふうに自分の衝撃を受け止めたように思う。

三島由紀夫連合赤軍のことを調べようと思ったわけではない。何が主張されていたかとか、それまでの経緯のようなことには関心がなかった。ただ通常の強盗事件とか殺人事件とは違う動機があり、それは彼らが自分の命をかけても成し遂げたいとする思想につながっていた。その思想に興味があったかというとそれも違う。思想そのものではなく、日常性を打ち破るに至るエネルギーの根本となるものというか、「特異点」に興味があった。その時それが起こってしまう時代性は何なのかという、抽象性にあったと思う。ぼくが青春時代にあった時の時代の切迫感はどうして存在していたのか、というふうに表現できるかもしれない。

行き詰まっていた。

ちょうどぼくも将来の職業選択がどうしても決められない迷いの時期に当たって、行き詰まっていた。何か訳がわからないけど漠然と全てが悲しかったのを覚えている。ちょうど宇多田ヒカルのデビューアルバムの全てが悲しかったように。(宇多田ヒカルとは時代が異なるが、彼女がどうしてあの頃悲しかったのだろうとコメントしていたのを聞いて、自分も同じと感じたのだった。ついでに言うとぼくの世代ではユーミンの「ひこうき雲」の悲しみに近いかもしれない。)

どうしてあの頃悲しかったのだろう?

妻の善良さに適う夫になる

経済的に極端な困難に陥ることなくただ平穏に過ごせてこれたのは、妻の采配に負うところが大きいと思っている。妻と破綻なく家庭を維持できたのもお互いの相性がいい組み合わせを作ったと感じている。年に結婚しているので今年で38年目になるが、これだけ一緒にいてもお互いは表面的にしか理解し合えていないと感じる。性格なら分かる。恋愛が苦手らしい感じはする。根は優しいし正直で天然のままのところは好ましく思っている。

ぼくと妻はお見合い結婚なので、恋人同士の期間に深く相手を求めるということがなかった。ぼくは自分を信じて妻の善良さに適う夫になろうと決断したのだ。見合いした頃の自分というのは精神的にどん底にあって、それを救ってくれたのが妻であった。妻は今、66歳だ。ぼくのことをどう思っているだろうか?ぼく達夫婦は子供ができなかった。だから、お父さんと呼ばれたことがなく、ぼくもおかあさん、あるいはママと妻を呼んだことがない。長く付き合ってきて危機も乗り越えてきた円熟夫婦というには程遠く、いつまでも友達夫婦でなんだか素人っぽい関係のような気もする。

1968年頃の地方の中学生

自我が芽生える頃がほとんど中学の頃と重なるように思えるのは、多分中学に入って環境が変わり、小学校の時とは全く違うタイプの同級生との接触が自分に向き合うきっかけを作るからだではないだろうか。小学校の同級生は同じような仲間だったのに、中学では日常的に違いに気づかされたり、場合によっては圧倒されたりする。ぼくの時代の中学にはいわゆるガキ大将がいた。ケンカに強く大柄であったり、体格は普通でも骨っぽくガッチリしていた。ぼくは小学校では女の子と自然に溶け合って遊ぶような優しい男子だったが、どういうわけか彼らのような不良男子に親近感を覚えた。幾分虚勢も張っていて今から思うと、強いものにすり寄っていたのかもしれない。「デミアン」に出てくる、年上の不良に盗みを強要させられるようなことまでは流石になかったが、同級生には家がヤクザ関係者だったり、ケンカがあると呼ばれて出て行くような舎弟まがいの少年もいた。いわゆる施設から来た野生の少年もいて、ぼくはどうしてなのかわからないが、その施設に遊びに行ったような記憶がある。強い者に取り入ろうとするばかりではなく、ひどく変わった所をもつ者に魅かれる性格がぼくにあったものと思われる。でもそういう少し危険な同級生や同窓生に近づくことはあっても友達にはならなかった。彼らの方もぼくのような「堅気」の少年には違和感があったのだろう。ただ親が学校の先生をしている不良の一人とは仲が良くなった。ケンカに出かけてはいくが、ウケ狙いをするオチャメなところもあってそれがどことなく安心感を与えたのだろう。彼とはその後ぼくが結婚するまでは付き合いが細く続いていた。 さてここでこの文章を書こうと思った動機に帰って、自我というものに考察を加えてみたい。自我とは何か、それはどういう働きをして自分の個性を形作ることになるのか、理性や感情や欲望とどう関係しているのかなどを考えてみたい。それは自分の人生の歩みの原因の多くを占めていそうな気がする。